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畠田秀生牧師 新書案内

文書伝道のためのご協力を 「武士道はキリストが起源だった」


~いま蘇るサムライスピリッツ~   著者 畠田 秀生

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「武士道はキリストが起源だった」
  ~いま蘇るサムライスピリッツ~  の目次と一文抜粋

目 次
1.失われた日本文化  2.国を形作る文化  3.要の天皇の権威  4.武士道の忠孝
5.自己の目覚めは日本の目覚めにつながる 6.武士とは 7.武士道の基本原理
8.武士の刀 9.武士の究極の理想は平和 10.聖書のなかの大和魂
11.サムライスピリットの継承  

聖書のなかの大和魂 (p.35)
人を動かす力は教義、教理ではない。まして戒律の中などにもない。律法主義は行いによって自らを正当化するが、宗教に熱心であろうとする者が入り込む牢獄である。しかし自由の翼をもちたい願望を潤すために大和魂は鍵となった。
縄文時代の日本にその精神が自然に生じ、培われたのであろうか。断じてそうではない・・・・・・
 

原稿を読んでいただいた中からの感想抜粋

文芸社 作品講評 出版企画部主任 小西将嗣

◆日本人の精神性支柱とも目される「武士道」と、キリスト教の経典である「聖書」との関連性について論じた、興味深い著作である。執筆者は、過去に『枯れた骨への大預言 古代ユダヤから21世紀の日本へ』を始め、複数の著作を刊行したことのある畠田秀生氏である。・・・牧師となって大阪を皮切りに教義の伝道活動にはげんできた。その一方で、古代史の研究にも力を注ぎ、特に日本とイスラエルとの関わりを周知する活動を積極的に行っている。本書は、そうした活動の中でも、特に「武士道」と「聖書」との共通点について論じたものである。

◆本書は全11パートで成り立っているが、本論について語られるのは6以降からで、1から5までは「武士道」の重要性に関する著者の持論が展開される。「武士道」が日本国内はもとより海外での認知度高い理由は、新渡戸稲造の『武士道』が刊行されたことによるもので、日本の精神性を世界に広めた彼の功績は高く評価されてしかるべきだが、改まって述べる必要がない程、日本人にとっては当然の思想・教えであることが、日本の制度や習慣、または歴史的事実、著名人らの言動によって紹介される。これらのことから著者が証明したかったのは、「東洋のシンドラー」と称賛された杉原千畝氏によるユダヤ人をひとつの例として、その精神を著者は「武士道」と看破し、日本文化の神髄と捉えている節がある。それが今の日本で失われつつあることに、強い危機感を覚えたことが、著作を執筆する強い動機づけになったようだ。

◆【七.武士道の根本原理】から、義、勇、仁、礼、誠、名誉、忠義、己を磨く、自己に打ち勝つ(克己)、そして切腹の順に、武士道の教えについてが、歴史的名将や、特筆すべき事件等を例に、また聖書の教えとの比較を交えて説明される。ここで留意すべきは、著者が述べるのはあくまでも「聖書」との共通点であって、厳格にはキリスト教とは一致しないことである。それは「果たして今日、どれほどの忠臣が教会にいるのか疑問である。」(P.27)、「日本のキリスト教会は、選び出された者たちの群れ、ギリシャ語の“エクレシア”としてのあるべき本来の姿として機能してほしいのである。(中略)個々のキリスト信者がイエスのことばを腰に帯びているサムライであるべきなのである。」(P.33)と苦言をていしていることからも明らかである。・・・このようなキリスト教に対する辛辣な批判が示す通り、著者は日本文化の消滅と同時に、キリスト教精神の喪失にも強い危機感を覚えており、本書はこの両方の事由から生まれたものであることは間違いないだろう。

◆「武士道」と「聖書」、つまりは日本とイスラエルとの緊密な関係にも言及した、意欲的な内容である。「武士道」の魅力の再発見に繋がるだけでなく、歴史探訪の要素も具えていることから、知的好奇心をも刺激させられよう。これまでは、日本との接点がそれほどあるようには思えなかったイスラエルという国が身近になるだけでなく、両者が緊張関係にある国家間の橋渡しをすることで、平和な世界の実現に一歩でも近づくことが出来るかもしれない。著者にはそうした意味も含めて書籍化を実現してほしいものである。

 

すいせんのことば     このことばは本に掲載されますが、その中の抜粋です。

宣教師訓練センター所長    奥山実

かつて「聖書的・伝道的」と言われて、生き生き伝道に励み、多くの若き献身者を生み出していた教派・教団の中で、その勢いを失い「閉塞感」に覆われている群れが、かなりあると言われている。その最大の理由の一つは、主イエス様の福音に「命をかける主の働き人の激減」である。 だから、「主イエス様の福音のために命をかける」ことを忘れた人々に、「本書の炎」が飛び火して、「命がけの真の献身者が激増する」ことを期待する。

戦後、欧米から多くの聖書的・伝道的宣教師が日本に来て伝道に励み、さらに、中国が共産化して中国で伝道出来なくなった多くの宣教師が日本に来て、聖書的・伝道的良質な教会を生み出して下さった。

それらの宣教師と共に働いた日本人牧師・伝道者の多くは、その初期に於いて、明確な生活の保証もなく、まして老後のプランなど皆無であった。しかし主イエス様の絶大なる救いの恵みを味わい知り、その福音で日本人を救うために懸命に働いた結果、日本最大の教団、日本基督教団と肩を並べるほどになり、かなり大きな教会も出現し、外見上よく整った多くの教会が生み出された。

しかし、いつの間にか、それらの教会に「閉塞感」の闇が覆い始めた。・・・・・・   本書は、福音宣教のために「命がけで主イエスに従った」あの初めの愛に再点火してくださるに違いない。そして主に「命がけの若き献身者」が続々と起こされることを期待する。

西郷隆盛が山岡鉄舟に就て語った言葉、 “命もいらず、名もいらず、官位もいらず、金もいらずという人は始末に困る。・・・・・・・     だが、この始末に困る人でなくては大事はできない。なぜならば、こういう人は、 ただ単に無欲と言うだけでなく、日々道をおこなっているからだ。 正しい道を歩き続けているからこそ自信があって、何もいらぬと言えるのである。”   が、本書に紹介されている。

主の僕は山岡鉄舟以上に「無私無欲」でなければならないのではないか。 ・・・・・・・ 本書を通して、主君の為には命をも捨てる武士道精神が、キリスト教を起源とすることを知り、中途半端な献身から “自分を神に献げるように努め励んで”(2テモテ2:15ーーパウロが献身しているテモテに、もっと献身しなさいと迫っているところ)、サムライ以上に、主イエス様の為に命がけで従う一人でも多くの主の働き人が生み出されることを期待する。

 

主イエス・キリスト教会 牧師 大久保 みどり

この書を読ませて頂いた時、余りの語彙の豊富さと縦横無尽なる洋の東西思想の絡みに圧倒されました。浅学な私は、慌てて「葉隠れ」「菊と刀」を初めとして、未だ読んだことの無い資料を買い漁り、読んでから又本著に帰るという大変時間の掛かる思いで完読させて頂きました。感想は「ただ心から深く感謝申しあげます。」これ以上でもこれ以下でもありません。多くの日本人が持っているであろう漠然とした疑問や気持ち、ここぞと明確に説明出来ないけれど捨てたくない大和魂、武士道、の根源と実態、関連性が鮮やかに描き出されたからです。 「成る程!」「したり!」とこの書を読まれる方は膝を打たれるのではないでしょうか?終に近づくにつれ、キリスト教と大和魂、武士道との関連は圧巻です・・・・・・・・・・・・・・

武士道の基盤が聖書にあったかどうかを証明することは難しい、しかし、畠田師は本著を通して、武士道精神が聖書精神と似通っていること、否それ以上に聖書の源流が武士道の中に脈々と流れていることを明らかにされました。この投じられた大きな一石に心から感謝を表したいと思います。・・・・・・・・歴史解説は多々ありますが、建国紀元2600年、この年に忽然と天皇即位の話が出てくることになるほどと歴史ロマンの花が開きます。斯くなれば、武士道精神の根源が聖書にある事はより信憑性をもって迫って参ります。

死は永遠の滅亡、無に帰するものではなかった。ことばが成ってサムライスピリッツが生じた。ことばとは、初めにことばがあったということばは神であったと言う真理であった。武士に二言は無いに通じている。  36p

彼らは武士道精神を信じ、生き抜いた。それが聖書に起因しているものと知らなかったとしても、永遠に無に帰さない命、サムライスピリッツを生み出した。と言う解釈に感涙します。聖書の精神を自力で生きようとした武士達、彼らの血のにじむ自己鍛錬と事故否定の上に生じたサムライスピリットは律法主義、道徳主義に陥らなかった、永遠に生きると言うほど昇華していたと言う事実は、驚異に値するのではないでしょうか!

・・・・・・・ 東の果ての日の上る国、その大和魂を育て、文化を築いて言った武士道精神こそ、日本人の日本人による日本人のためのリバイバルの引き金になるのではないかと大いなる希望を抱くことが出来ました。本書がリバイバルの要の一つとなることを切にお祈り申しあげます。

 

佐藤博夫妻の感想 (仙台在住)

畠田会長の情熱に圧倒。まさに渾身の作。日本人の心の中に、未だくすぶる燈芯の如く残っている大和魂を武士道の中に捜し、そしてその武士道はイエス・キリストの教えと矛盾するものではなく、むしろ同根であると喝破。アーメンです。「武士道とは死ぬこと」と、ガラテヤ2章20節のパウロの告白が対立するものではなく、同じ理解の線上にあることを知りました。武士道にある徳目も、切腹に対する考えも、聖書の教えと違うものではない。私たちはもっとこの事実に目を向け、そして知らなければなりません。

22頁「キリスト信者の」~23頁「見分けることが出来る。」は、情けない事ですが現在の多くの日本のキリスト教会の実態です。その解決は28頁にあるように「日本独自のサムライの刀のもつ意味を吟味し、刀にかけて死ぬことは生きることである武士の一分を持つこと…」にあると思います。

古来より日本人の心に蒔かれ、大事に育まれて来た種があります。それは文化や伝統、さらには日本語を形作り、日本人のアイデンティティーとして、今も枯れそうになりながらも息づいています。何か困難なことがあると、それは一斉に芽吹き、その様相を見る時、他国の人たちは眼を見張ります。

その種は遥か西方からシルクロードを通って東の島々にやって来た人たちがもたらしたことを。そして長い年月をかけて大和の心(魂)を形作ったことを私たちは知っています。

それが武士道となり、男も女も士農工商の差もなく、すべての人の心に不文律として形作られました。先に救われた者は、この種に神の光を当て、生ける命の水をやり、糧としての御言葉を伝えなくてはなりません。逆にその種を育てるのではなく、引っこ抜こうとしている有様です。西洋礼賛、盲従のキリスト教界に、どうぞ風穴を開ける一冊。

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